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三島由紀夫の噂&名言名句★2

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 12:56:57
ひきつづきミシマワールドへ

前スレ
三島由紀夫の噂
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1195914213/

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:02:10
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は
諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を
主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の
正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは
達するといふのか。僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、
僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らはたえず僕らを無窮の
星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に僕らの
可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:05:31
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。



盲目的なるかにみえる衝動も、言葉を行使するに当つての理性と同一の源泉から生れた
ものであり、畢竟(ひつきやう)理性の詩的発現に他ならない。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:06:31
あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を昂(たか)めこそすれ、決して
もみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに僕らは
誇りを感じるべきだ。



形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。



独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:07:26
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。
なぜなら我々の最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりで
その存在の可能性のみを信仰してゐることに存するのだから」かくの如く僕らは主張し
警告することを憚るまい。



新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の
王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を
歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:19:32
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。

三島由紀夫「宗十郎覚書」より


小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。

三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:23:23
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。



若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの
安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。



自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子(おなご)の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。
男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。

三島由紀夫「絹と明察」より

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:28:36
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに
無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、
どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、
そこには何か有無を言わせぬ力がある。男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、
女の場合は純粋な精神力である。どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、
愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。非常に美しい若い女が、大金持の
老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それはまちがつてゐる。
打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

三島由紀夫「愛するといふこと」

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/01(木) 13:30:00
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。

三島由紀夫「冷血熱血」より



美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 00:24:35
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。

三島由紀夫「家庭裁判」より


若い女といふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。
ふいに体が固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。

三島由紀夫「白鳥」より


どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。
男の値打も、醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。
さういふ磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。

三島由紀夫「人間喜劇」より

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 00:29:52
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から
生れたものである。



小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば
酷薄な性格の仮面になる。
独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人であることがわかつて捕へられた。
彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。その貧民の一人を、彼はけちな
報復の動機で殺してゐたのである。
彼は殺人と慈善とのこの二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。

三島由紀夫「手長姫」より

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 00:39:08
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。



何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。



孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 00:40:23
現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、
なにから、やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。



私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。
うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、
とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに
自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。

三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 11:46:04
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな
現実におくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、追憶なしにはそれを占つたり、
それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけて
さがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。泉のうへにおちちらばつて
ゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。



祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑ふかもしれない。
だがそれは真実なのだ。

三島由紀夫「花ざかりの森」より

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 11:58:31
今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれてゐるので、
そのなかに住ひを索めることができない。かれらはかなしさうに、そはそはと時計のやうに
そのまはりをまはつてゐる。



美は秀麗な奔馬である。



真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。そんな自信や確信のなさを、
またしてもひとびとは非難するかもしれぬ。しかしいとも高貴なものはいとも強いものから、
すなはちこの世にある限りにおいて小さく、ゆうに美しいものから生れてくる。

三島由紀夫「花ざかりの森」より

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 12:04:21
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。
川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものは
けふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて
語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ。


ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。祖母と母において、川は地下を
ながれた。父において、それはせせらぎになつた。わたしにおいて、――ああそれが
滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るものゝやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。

三島由紀夫「花ざかりの森」より

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/02(金) 12:06:08
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすらわからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……

三島由紀夫「花ざかりの森」より

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/03(土) 14:43:28
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。



少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合はせに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。

三島由紀夫「遠乗会」より

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 01:31:49
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。



空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。



男はどんな職業についても、根本に膂力(りよりよく)の自信を持つてゐなくてはならない。
なぜなら世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を
証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。

三島由紀夫「小説家の息子」より

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 10:59:03
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。



私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり
忘れたやうに、もう二度と来ませんでした。
…それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないのでした。
来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。

三島由紀夫「わが思春期」より

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 11:00:33
窓の外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見おさめだといふ気がしてゐました。
あんな不思議な感情は、今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐる
この戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて終るだらうし、目の前にあるものは
惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも見おさめ
といふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。
ですから感覚は生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、
ちやうど雨季に入りかけた木々の緑のしたたりも、実に新鮮に目に映るのでした。

三島由紀夫「わが思春期」より

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 15:36:48
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。



青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。



どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 15:37:55
小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。



芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。


芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/04(日) 15:39:32
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさはぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。



忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老ひの兆(きざし)だ。



文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老ひ朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 09:51:05
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。



どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。

三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より


男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。

三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 09:53:21
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。

三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より


美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。



美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。

三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 09:55:47
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。

三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より


人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。

三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より


個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。



私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。

三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 09:58:43
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。

三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より


何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。

三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 09:59:29
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。



肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。



日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。

三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 10:01:29
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。



子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の
不潔さよりも、女性の好評を得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、
性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて現はれてゐる。



動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。



男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは
一つもない。

三島由紀夫「第一の性」より

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 10:04:09
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。
なぜなら男が、「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が
「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概してその前に美人ではないけれどといふ言葉が
略されてゐると思つてまちがひないからです。



「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとる
といふことと、「愛する」といふこととはちがふ。



相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます
相手から嫌はれる羽目になる。

三島由紀夫「第一の性」より

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 10:06:05
愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。



小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。



男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。



変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。

三島由紀夫「第一の性」より

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 10:08:43
男には謎に耐へられない弱さがある。
…男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、
現実と人生の謎を、カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、
男は耐へられない。



人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。



スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。


政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにある。

三島由紀夫「第一の性」より

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 10:13:36
俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色が
ひそんでゐると云つても過言ではない。



宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。



宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、
指導者、組織者としての一面と、三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、
キリストも釈迦も、男でありました。

三島由紀夫「第一の性」より

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:30:09
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか? 
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか? 
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:33:06
第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、
もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし
弱点をそのまま強味へもつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な
生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:39:54
絶望から人はむやみに死ぬものではない。



典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:44:53
芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?



われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:54:36
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に
媚びることである。他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。



私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 17:57:02
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々
この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようと
してゐるところかもしれないのだ。



都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。



正しい狂気、といふものがあるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 12:35:14
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な残酷さが
そなはつてゐる。少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと一緒にしか
成長しないものです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より


ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの
怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、
さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 12:39:25
お節介は人生の衛生術の一つです。



お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より


現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。



世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。

三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 12:44:55
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。

三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より


世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。



己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
恋愛から己惚れを差引いたら、どんなに味気ないものになつてしまふことでせう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 12:57:48
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。



流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、
あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より


世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。

三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 13:00:51
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。



エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より


全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 13:43:49
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を
鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。



女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに
鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より


人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 13:47:06
若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしてゐるのは、たいてい失恋常習者である。



およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より


「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:41:15
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。



五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と
交はつた男は、単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき
男であるといふ事態も起り得る。

三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:43:04
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。



虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた
怒りだと断言してもよろしい。

三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:45:14
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。



運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。



人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:51:16
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。死者に対する悪口は、
これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より


ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より


利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:53:24
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。



やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所を
みとめるのに、人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。



どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 19:56:41
北欧諸国で老人の自殺が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自殺するのである。



青年男女の自殺といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。



大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。

三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 20:07:07
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。


友情はすべて嘲り合ひから生れる。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より


三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。小説家自身が人生に
アップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、一息ついてゐる姿が、
すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 20:08:49
神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より


怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」より

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 20:11:08
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。



セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。



人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 20:16:13
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。


孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
…男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。


このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのは
どうも不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の威厳を
自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべき
ものではないらしい。

三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 20:17:50
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より


現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。

三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より


男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたい
といふことです。世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、
故里の港一つしかない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/07(水) 11:42:00
頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、いちばん悪質の頽廃だ。



愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか?



抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに冷酷な相貌を帯びやうと、
心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の一つのあらはれにすぎなかつた。

三島由紀夫「仮面の告白」より

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/07(水) 11:47:52
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。



処女だけに似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とは
ことかはり、微風のやうに人を酔はせる。それは可愛らしい悪趣味の一種である。
たとへば赤ん坊をくすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。

三島由紀夫「仮面の告白」より

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/07(水) 11:52:48
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。



潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。



好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。



人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだつて、
立つ力がないとは言ひ切れまい。

三島由紀夫「仮面の告白」より

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 11:37:33
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。



潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。



好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。



謙遜すぎる女は高慢な女と同様に魅力のないものである。



人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだつて、
立つ力がないとは言ひ切れまい。

三島由紀夫「仮面の告白」より

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 11:50:26
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。



女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、
夫の意見よりも、つねに世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は
大企業の作つた罠であることを、ほとんど直視しようとしません。
「だつて私の幸福は私の問題だもの」
たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分ノイローゼ的な、幸福への夢への
たえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。



一から十まで完全に良い趣味の男といふのは、大てい女性的な男ですし、ニヒリズムを
持たない男といふのは、大てい脳天パアです。

三島由紀夫「反貞女大学」より

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 11:58:00
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。


芸術および芸術家といふものは、かれら自身にとつては大事な仕事であるものが、女性からは
暇つぶしに使はれるといふ宿命を持つてゐる。モーツァルトがどんなにえらからうと、
トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。



芸術家といふのは自然の変種です。
角の生えた豚は、一般の豚から見れば、たしかに魅力的かもしれませんが、何も可愛い
わが豚娘に、わざわざ角を生やしてやるには及ばない。

三島由紀夫「反貞女大学」より

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 12:04:25
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。


女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、
男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。


愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。


ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を
求めるやうになる。
…そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリの
デザイナーもほとんど男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、
流行についてだけは、素直に男の命令に従ひます。

三島由紀夫「反貞女大学」より

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 12:07:17
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。



骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。



政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の
歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうが
ずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。

三島由紀夫「鹿鳴館」より

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 12:07:45
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。絵描きとか文士とか、芸術といふものは
みんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ。


この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。



政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。



お嬢さん、教へてあげませう。武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な道具なんですよ。

三島由紀夫「鹿鳴館」より

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 14:21:30
国士

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 14:07:04
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。



あたしあなたの、その不死身が憎らしいの。誰も愛さないから、誰からも傷を負はない。
お母様がさういふあなたをどんなに憎んでどんなに苦しんで来たか、よくわかつたわ。



苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。

三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 16:16:14
真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。彼はむしろ自ら客を
招くべきであらう。自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。



偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。



いかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つて
ゐると信ずることから生れて来る。自由そのものの使命感である。では僕の使命は何か。
僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものがそれだとしか僕には言へない。そのものに対して
僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、その待つこと、その
心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。僕の使命は用意することである。

三島由紀夫「招かれざる客」より

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 23:58:21
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。



神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。

三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より

無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。

三島由紀夫「恋する男」より

72 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 10:02:42
いいね

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 11:49:30
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、
その論理が終るまでやむことがない。



目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きて
ゐる人たちは行動といふものを忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理が
ある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや言論ではなくて、肉体行動に
帰着しなければならないことは当然なのである。



行動は一瞬に火花のやうに炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。


真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外には
なくなるであらう。

三島由紀夫「行動学入門」より

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 11:49:47
死の向ふ側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを
考へることはできないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに
求められなければならない。



超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がない。



われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを発見しないの
かもしれない。



無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、
そこに正義運動の反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。

三島由紀夫「行動学入門」より

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 11:50:14
賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、
賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けてゐつたのでは、賭けではない。



行動がことばでないと同様に、待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で
最も苦しい時間なのである。



自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、美がその本来の純粋な形をとる。



二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。
しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができやうか。

三島由紀夫「行動学入門」より

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 11:50:29
どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだ。



すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。
行動は、たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断は
なかなかつかない。歴史の中に埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為は
たくさんある。



行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせない
からこそ行動なのである。

三島由紀夫「行動学入門」より

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:33:46
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。
ああ、金色のヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の
勇士たちの亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、
いかに万斛の涙を流したことであらう。



もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身可愛さに
ヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:34:57
買弁資本家やユンカー一族、保守派の老ひぼれ政治家や老ひぼれ将軍、将校クラブで俺を
鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や民衆のことを一度も考へたことのない
あの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝からビールとじやがいものおくびをしてゐる
布袋腹のブルジョアども、官僚といふあのマニキュアをした宦官ども、……あんな連中の
上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、シーソオ・ゲームに憂身をやつして、
お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:35:39
演説のあとの広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで
行つても人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。



自分を狂人だと思はなければとても耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる
場合は……自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:37:05
俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を
裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、
鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。
しかしそのときも、俺が息を引取るのはベッドの上ではない。



どんなに行政機構の森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、
夜明けの色の静脈と共に敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、
権力のもつとも深い実質は若者の筋肉だ。



人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:38:00
歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。死者の目に映る
遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに砕けてしまつた。
あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとおるやうな味をなくしてしまつた。



どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病のやうに鈍麻させてゆく。かつて闇のなかで
道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:40:17
鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。だから却つて
鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。



友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。これなしには
現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。



この緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い岩漿(マグマ)が
煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この灼熱した
不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 13:41:06
いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるかどうか、つて。
それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜかくも暗く、
なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。それだけでは
十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に小麦畑を豊饒にし、
ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で神のやうに蘇らせ、
すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせやうとするのかを。……それが私の
運命なのです。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 20:33:36
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。



夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。



最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、
私は覚えて来たからである。

三島由紀夫「岬にての物語」より

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 01:11:37
女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映つてゐるのが
僕らの住んでゐる世界。



女の目のなかにはね、ときどき狼がとおりすぎるんだよ。



女の批評つて二つきりしかないぢやないか。「まあすてき」「あなたつてばかね」この二つきりだ。



子供が生れる。こんなまつ暗な世界に。おふくろの腹の中のはうがまだしも明るいのに。
なんだつて好きこのんで、もつと暗いところへ出て来ようとするんだらう。


三島由紀夫「邯鄲」より

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 01:11:59
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。
さてどつちが早く汚れるでせう。



恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。



笑ひなさい! いくらでも笑ひなさい! ……あんた方は笑ひながら死ぬだらう。
笑ひながら腐るだらう。儂はさうぢやない。……儂はさうぢやない。笑はれた人間は
死にはしない。……笑はれた人間は腐らない。



今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。

三島由紀夫「綾の鼓」より

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 01:12:18
大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも
花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむより楽しむことだよ。



楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。その輝やく声、
そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立つて、出かけて行かなくちやならんのだ。



相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。

三島由紀夫「熊野」より

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:45:42
人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだ。
性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。



音楽といふ観念が音楽自体を消すのである。


嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?



一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。

三島由紀夫「音楽」より

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:47:30
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人が
しつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの
顔も知らずに嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。



たしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるといふことである。
いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。

三島由紀夫「音楽」より

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:49:17
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。



「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。



精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。

三島由紀夫「音楽」より

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:52:03
人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。



男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、
より効果的である。



見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。

三島由紀夫「音楽」より

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:54:26
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れる
ことはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。

三島由紀夫「音楽」より

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:56:43
われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。



どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。



神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。



強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。

三島由紀夫「音楽」より

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:58:46
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。



ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。

三島由紀夫「音楽」より

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 12:59:35
社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。



神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。

三島由紀夫「音楽」より

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:15:58
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報ひではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだ。



女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。


幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうなものなのよ。
ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを一目一目、
手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つてほつとする。
地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に変へることができるのよ。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 13:16:26
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光った。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、
夜になればお互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。



この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉じ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、思ひ出の
果物の核(さね)なのだわ。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 19:50:31
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。



自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。

三島由紀夫「道成寺」より

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 19:51:46
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。



高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 19:52:38
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?



愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。

三島由紀夫「班女」より


あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

三島由紀夫「班女について」より

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 19:55:16
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的
鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。



ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。

三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 11:08:03
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。



幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!



誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。



はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。
でもその思想や主義をもちつづけるのは女なねよ。女はものもちがいいんですもの。



人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。

三島由紀夫「永すぎた春」より

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 11:10:30
美しい身なりをして、美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だ。



現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。



他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか書かない。



建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。


皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。
三島由紀夫「永すぎた春」より

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 11:12:20
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。



他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもある。


幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいにもらつていいものなのね。

三島由紀夫「永すぎた春」より

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 13:03:33
美しい名文ばかり

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 23:52:08
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。



どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。



人間は死ぬために生きてるのぢやございません。



僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!

三島由紀夫「卒塔婆小町」より

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:03:59
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。



私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。
私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を
平気で歩いて差上げますわ……。



この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。



背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文。

三島由紀夫「弱法師」より

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:05:34
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。



われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。



形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。

三島由紀夫「弱法師」より

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:07:02
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。

三島由紀夫「弱法師」より

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:12:14
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方からこだまを返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ?何だと思ふ?あれは言葉じゃない、
歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。

三島由紀夫「弱法師」より

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:18:26
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。



余計なことを耳に入れず、忌まはしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐ、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。



夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。



喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから
幸福になつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、
蝶々になつたのよ。

三島由紀夫「熱帯樹」より

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:19:21
一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。



淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。

三島由紀夫「熱帯樹」より

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:23:37
僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。



人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。



飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:25:45
牛乳配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ茂つたやうに
見えもしない朝、鷄といふ鷄は殺されて時も告げない朝、……もし今が朝だつたら、
そんか朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうして殺された鷄のために泣くだらう。
ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:31:03
もう薔薇は枯れることがございません。
この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
これがそのしるしの薔薇、
これがその久遠の薔薇でございます。
薔薇の外側はまた内側、
薔薇こそは世界を包みます。
この中には月もこめられ、
この中には星がみんな入つてをります。
これがこれからの地球儀になり、
これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占いも、みんなこの凍つた
花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 17:51:38
贅沢や退屈のしみこんだ肉は、お酒のしみこんだ肉と同じで、腐りさうでなかなか腐らない。



希んだものが、もう希まなくなつたあとで得られても、その喜びは無理矢理自分に言つて
きかせるやうなものなんです。



人間つて決して不幸をたのしみに生きてゆくことなんかできませんのね。



目には目を、歯には歯を、さうして、寛大さには寛大さを。

三島由紀夫「白蟻の巣」より

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 17:52:16
人を恕すといふことは、こんなことだつたのか。こんなに楽なことだつたのか。……
そしてこんなに人間を無力にするものなのか。



世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。

三島由紀夫「白蟻の巣」より

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:45:47
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の
綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。



外的な事件からばかり成立つてゐた浪漫的悲劇が、その外的な事件の道具立を失つて、
心の内部に移されると、それは外部から見てはドン・キホーテ的喜劇にすぎなくなつた。
そこに悲劇の現代的意義があるのである。



確信がないといふ確信はいちばん動かしがたいものを持つてゐる。

三島由紀夫「盗賊」より

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:51:25
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。と同時に真の偽善者も亦、
女の中にこれを見出だすのはむつかしい。女は自分以外のものにはなれないのである。
といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は
茲(ここ)にある。



女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である。



愛といふものは共有物の性質をもつてゐて所有の限界があいまいなばかりに多くの不幸を
巻き起すのであるらしい。



ある人にあつては独占欲が嫉妬をあふり、ある人は嫉妬によつて独占欲を意識する。

三島由紀夫「盗賊」より

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:55:10
嫉妬こそ生きる力だ。だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて
嫉妬することを知らない人が往々ある。彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、
もつと微妙で高尚な、それだけ、はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。


我々が深部に於て用意されてゐる大きな変革に気附くまでには時間がかかる。夢心地の裡に
汽車を乗りかへる。窓の外に移る見知らぬ風景を見ることによつてはじめて我々は汽車を
乗りかへたことに気附くのである。



ある動機から盗賊になつたり死を決心したりする人間が、まるで別人のやうになつて了ふのは
確かに物語のまやかしだ。むしろ決心によつて彼は前よりも一段と本来の彼に立還るのではないか。

三島由紀夫「盗賊」より

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:59:53
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。



たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された
行為であつても、それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、
自殺とは錬金術のやうに、生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)な
のぞみであらうか。かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。
われわれの科学はまだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすことも
できないわけだ。生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて
三週間醗酵させれば鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。

三島由紀夫「盗賊」より

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 11:02:28
皮肉な微笑は、かへつて屡々(しばしば)純潔な少女が、自分でもその微笑の意味を知らずに、
何の気なしに浮かべてゐることがあるものだ。



いかに純潔がそれ自身を守るために賦与した苦痛の属性が大きからうと、喜びの本質を
もつた行為のなかで、その喜びを裏切ることが出来るだらうか。



人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。生を
選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。

三島由紀夫「盗賊」より

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 11:05:27
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。――生きて
ゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。



人間の想像力の展開には永い時間を要するもので、咄嗟の場合には、人は想像力の貧しさに
苦しむものだつた。直感といふものは人との交渉によつてしか養はれぬものだつた。
それは本来想像力とは無縁のものだつた。

三島由紀夫「盗賊」より

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 11:10:11
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。



何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。



何気なく何物かを宿し、その宿したものに対して忠実なのは女だ。彼女の矜りの表情は
彼女の知らないところに由来してゐる。



必要に迫られて、人は孤独を愛するやうになるらしい。孤独の美しさも、必要であることの
美しさに他ならないかもしれないのだ。

三島由紀夫「盗賊」より

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 11:13:04
地球といふ天体は喋りながらまはつてゐる月だつた。喋りつづけてゐるおかげで、人間は
地球がもうすつかり冷却して月とかはりなくなつてゐることに気附かない。しかも
地球といふ天体は洒落気のある奴で、皆が気附かなければそれなりに、そしらぬ顔をして
廻りつづけてゐるのだつた。



決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。丁度眠りをとらぬこと七日に及べば
死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と生の意識とは早晩人を死へ
送り込まずには措かぬものだらうか。



莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。

三島由紀夫「盗賊」より

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:48:22
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。
おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。
また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、
それが翼をもたないことだ。



そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の
よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、
たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに
足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:51:38
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけから
うまれ出るものかもしれない。



蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。



ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や
痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:56:26
無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の
ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ
届けられるのにちがひない。



星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに
森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 15:18:00
良スレだ

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 16:25:15
なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待ってくれているように思われる場合もある。
しかし待ってくれる現実はもう新鮮な現実ではない。
私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。

三島由紀夫「金閣寺」より

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 17:34:52
名文

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 00:04:58
精力はともすると物憂げな外見を装ひたがるものである。



同情といふ感情は一種の恐怖心で、自分に大して関係のないものが関係をもちさうに
なるのを惧(おそ)れるあまり、先手を打つて、同情といふ不良導体でつながれた関係を
もたうとする感情だ。



事件といふものが一種の古典的性格をもつてゐることは、古典といふものが年月の経過と共に
一種の事件的性格を帯びるのと似通つてゐる。事件も古典と同じやうに、さまざまの
語り変へが可能である。

三島由紀夫「親切な機械」より

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:24:38
期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な
表情をしてゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。



羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。



自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。

三島由紀夫「恋の都」より

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:26:22
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の
背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした
つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。



自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。なまじ大人になつて
いろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。
婿えらびをする能力といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、
ずつと豊富にもつてゐるのかもしれないんだぜ。



後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。

三島由紀夫「恋の都」より

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:41:41
われわれはふだん意志とは無形のものだと考へてゐる。軒先をかすめる燕、かがやく雲の
奇異な形、屋根の或る鋭い稜線、口紅、落ちたボタン、手袋の片つぽ、鉛筆、しなやかな
カーテンのいかつい吊手、……それらをふつうわれわれは意志とは呼ばない。しかし
われわれの意志ではなくて、「何か」の意志と呼ぶべきものがあるとすれば、それが
物象として現はれてもふしぎはないのだ。その意志は平坦な日常の秩序をくつがへしながら、
もつと強力で、統一的で、ひしめく必然に充ちた「彼ら」の秩序へ、瞬時にしてわれわれを
組み入れようと狙つてをり、ふだんは見えない姿で注視してゐながら、もつとも大切な瞬時に、
突然、物象の姿で顕現するのだ。かういふ物質はどこから来るのだらう。多分それは
星から来るのだらう、と獄中の幸二はしばしば考へた。……

三島由紀夫「獣の戯れ」より

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:47:46
幸二が正に見たかつたのは、人間のひねくれた真実が輝やきだす瞬間、贋物の宝石が
本物の光りを放つ瞬間、その歓喜、その不合理な夢の現実化、莫迦々々しさがそのまま
荘厳なものに移り変る変貌の瞬間だつた。さういふものの期待において優子を愛し、
優子の守つてゐた世界の現実を打ち壊さうと願つたのだから、それが結果として逸平の
幸福になつても構はない筈だつた。少なくとも幸二は何ものかのために奉仕したのだ。
しかし実際に幸二が見たのは、人間の凡庸な照れかくしと御体裁の皮肉と、今までさんざん
見飽きたものにすぎなかつた。彼は計らずも自分が信じてゐた劇のぶざまな崩壊に立ち会つた。
『そんなら仕方がない。誰も変へることができないなら、僕がこの手で……』
支柱を失つた感情で、幸二はさう思つた。何をどう変へるとも知れなかつた。しかし
着実に自分が冷静を失つてゆくのを彼は感じた。

三島由紀夫「獣の戯れ」より

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:53:25
『あのとき俺は、論理を喪くしたぷよぷよした世界に我慢ならなかつたんだ。あの豚の
臓腑のやうな世界に、どうでも俺は論理を与へる必要があつたんだ。鉄の黒い硬い冷たい
論理を。……つまりスパナの論理を』



幸二は清の単純な抒情的な魂を羨んだ。硝子のケースの中の餡パンのやうに、はつきりと
誰の目にも見える温かいふつくらした魂。刑務所の庭にも清の語つたのと同じやうな花園があつた。
受刑者たちが手塩にかけて育ててゐるその花園を、幸二は手つだはなかつたけれど、
遠くから愛してゐた。ひどく臆病に、迷信ぶかく、痛切に、しかもうつすらと憎んで。……

三島由紀夫「獣の戯れ」より

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 11:55:10
人生とは何だ? 人生とは失語症だ。世界とは何だ? 世界とは失語症だ。歴史とは何だ? 
歴史とは失語症だ。芸術とは? 恋愛とは? 政治とは? 何でもかんでも失語症だ。



座敷のまんなかに深い空井戸が口をあけてゐる家といふものを想像してみるといい。
空つぽな穴。世界を呑み込んでしまふほど大きな穴。あんたはそれを大事に護り、
そればかりか、穴のまはりに優子と俺をうまい具合に配置して、誰も考へつきさうもない
新らしい『家庭』を作り出さうといふ気になつた。空井戸を中心にしたすてきな理想的な家庭。

三島由紀夫「獣の戯れ」より

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 12:06:57
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の
寄宿舎のそねみ合ひと大差がありません。



剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
殺し合ふのは当然のことです。

三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/20(火) 10:52:40
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。



凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。



どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。



若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。

三島由紀夫「純白の夜」より

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/20(火) 10:55:15
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?



どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが
本来男性的な能力だからである。



秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。



秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。

三島由紀夫「純白の夜」より

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/20(火) 10:57:36
感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に身を委す。
といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が傾きつつあることに
気がつかない。



粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な快楽は、
不必要なだけに純粋なのだ。



貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといい、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところはないのだと
是認するのであつた。

三島由紀夫「純白の夜」より

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/20(火) 10:58:58
不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。



恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。

三島由紀夫「純白の夜」より

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/20(火) 16:42:53
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。



退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。



夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。



狩人は義士ぢやございません。狩人のねらふのは獣であつて、仇ではございません。
獲物であつて、相手の悪意ではございません。熊に悪意を想像したら、私共は容易に
射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は
害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへはいたしますまい。

三島由紀夫「夏子の冒険」より

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 10:49:25
表現といふことは生に対する一つの特権であると共に生に於ける一つの放棄に他ならぬこと、
言葉をもつことは生に対する負目のあらはれであり同時に生への復讐でもありうること、
肉体の美しさに対して精神の本質的な醜さは言葉の美のみがこれを償ひうること、
言葉は精神の肉体への郷愁であること、肉体の美のうつろひやすさにいつか言葉の美の
永遠性が打ち克たうとする欲望こそ表現の欲望であること。



すべての自然のなかには創造されたいといふ意志、深い祈念をこめた叫びがある。

三島由紀夫「火山の休暇」より

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 10:50:50
表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも生きのこるのはそのためだ。
しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な死だらう。精神が肉体を模倣し、
肉体が自然を模倣する。つまり自然を――死を模倣する。自然は死だ。そのとき芸術家は
死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の限りなく近くにゐるのだなあ。
芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇があつたら、表現しなければならぬ。
なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が感じなければならぬこの自己の無力感、
おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と比べれば何ほどのことがあらう。

三島由紀夫「火山の休暇」より

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:01:01
人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。



生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。



お互ひが見えてゐて見えない。手をのばせば触れることができて触れ合はない。ところが
さういふ理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。



吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。



浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。

三島由紀夫「牝犬」より

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:55:02
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。



きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:55:33
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:55:50
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。



人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:56:09
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。



どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。



トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。



私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:56:33
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。



お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:58:30
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:58:48
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴:法律が私の恋文になり

明智:牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 10:59:10
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。

明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。

明智:しかし僕も……

黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。

明智:何が……

黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 12:34:54
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも思はれ、
一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。

三島由紀夫「椅子」より


妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、
夢はひとつの習慣になつて、今日まで規則正しくつづいてゐる。



憧憬と憐れみとは、不可解なものに対する子供らしい柔かな感情の両面だつた。
よく遠くの森で梟(ふくろふ)が鳴く声を、寝床のなかで耳をすましてきいてゐると、
子供の私は動物界の自由に対する童話的な憧れの気持と、暗い森の奥の木の洞から
目を丸くみひらいて歌ひつづけてゐなければならないあの小さな「生あるもの」への
憐れみの気持とを、併せ感じた。

三島由紀夫「朝顔」より

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 22:40:38
いいね

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 11:48:18
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。



精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 11:54:05
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。



決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 11:56:17
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? 
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。

三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 12:04:35
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を損なふのだ。



われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しやうと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。



惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。



外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、
いたましいものがある。

三島由紀夫「不満な女たち」より

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 12:09:50
高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も徒である。



女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。

三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より


健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど健康なのだ。

三島由紀夫「水音」より

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:14:16
女たちの笑ひさざめく声といふのは、どうしてこんなにたのしいのだらう。湖の上に
洩れて映る大きな旅館の宴会の灯のやうだ。そこには地上の快楽が、一堂に集まつてゐる
やうに見えるのだ。



小説家の考へなんて、現実には必ず足をすくはれるもんだ。



四十歳を越すと、どうしても人間は、他人に自分の夢を寄せるやうになる。



自分の小説の登場人物に嫉妬を感じる小説家とは、まことに奇妙な存在だ。

三島由紀夫「愛の疾走」より

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:17:41
美代は、丁度その時間にそこで作業が行はれてゐず、魚の腹から卵をしぼり出す残酷な仕事を
見ないですんだのを喜んだ。
『でも、卵……卵……卵……。男たちがこんな仕事をしてゐる!』
彼女は何だか自分が魚になつたやうな、ひどく恥かしい感じがした。自分も一人の女として、
冬からやがて春へと動いてゆく、自然の大きな目に見えない流れに、否応なしに押し流されて
ゆくのだと思ふと、しらない間に野球帽も手拭もとつて、寒さのために赤い活気のある
頬をした修一の横顔を、じつと眺めてゐるのが、何だか眩しくなつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:22:22
本当に愛し合つてゐる同士は、「すれちがひ」どころか、却つて、ふしぎな糸に引かれて
偶然の出会をするもので、愛する者を心に描いてふらふらと家を出た青年が、思ひがけない辻で
パッタリその女に会つた経験を、ゲエテもエッカーマンに話してゐるほどだ。



クライマックスといふものは、いづれにせよ、人をさんざんじらせ、待たせるものだ。
第一の御柱は崖のすぐ上辺まで来てゐるのに、ゆつくり一服してゐて、なかなか
「坂落し」ははじまらなかつた。



女といふものはな、頭から信じてしまふか、頭から疑つてかかるか、どつちかしかないものだな。
どつちつかずだと、こつちが悩んで往生する。漁も同じだ。『今日はとれるかな、とれないかな』
……これではいかん。必ず大漁と思つて出ると大漁、からきしダメだらうと思つて出ると大漁、
全くヘンなものだ。こつちが中途半端な気持だと、向ふも中途半端になるものらしい。
全くヘンなものだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:26:51
突然、美代は両手で自分の顔をおほひ、体を斜めにして、修一の腕をのがれた。
修一はおどろいてその顔を眺め下ろした。美代は泣いてゐた。
声は立てなかつたが、美代は永久に泣きつづけてゐるやうで、その指の間から、涙が
嘘のやうに絶え間なくこぼれおちた。顔をおほつてゐる美代の指は、華奢な美しい女の
指とは言へなかつた。意識してかしないでか、美代は自分の一等自信のない部分へ、
男の注視を惹きつづけてゐたことになる。
それは農村で育つたのちに、キー・パンチャーとして鍛えられた指で、右手の人差し指と
中指と薬指、なかんづく一等使はれる薬指は、扁平に節くれ立つて、どんな優雅な指輪も
似合ひさうではなかつた。
しみじみとその指を眺めてゐた修一は、労働をする者だけにわかる共感でいつぱいになつて、
その薬指が、いとほしくてたまらなくなり、思はず、唇をそれにそつと触れた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:30:24
…もともと口下手の修一は、こんなときに余計なことを言ひ出して、事壊しになるやうな
羽目には陥らなかつた。彼は子供が好奇心にかられて菓子の箱をむりやりあけてみるやうに、
かなり強引な力で、美代のしつかりと顔をおほつてゐる指を左右にひらいた。
涙に濡れた美しい顔が現はれた。しかし崩れた泣き顔ではなくて、涙のために、一そう
剥き立ての果物のやうな風情を増してゐた。修一はいとしさに耐へかねて、顔を近づけた。
するとその泣いてゐた美代の口もとが、あるかなきかに綻んで、ほんの少し微笑したやうに
思はれた。
それに力を得て、修一は強く、美代の唇に接吻した。

三島由紀夫「愛の疾走」より

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:38:05
……美代はこの唇こそ、永らく待ちこがれてゐた唇だと、半ば夢心地のうちに考へた。
もう何も考へないやうにしよう。考へることから禍が起つたのだ。何も考へないやうにしよう。
……こんな場合の心に浮ぶ羞恥心や恐怖や、果てしのない躊躇逡巡や、あとで飽きられたら
どうしようといふ思惑や、さういふものはすべて、女の体に無意識のうちにこもつてゐる
醜い打算だとさへ、彼女は考へることができた。純粋になり、透明にならう。決して
過去のことも、未来のことも考へまい。……自然の与へてくれるものに何一つ逆らはず、
みどり児のやうに大人しくすべてを受け容れよう。世間が何だ。世間の考へに少しでも
味方したことから、不幸が起つたのだ。……何も考へずに、この虹のやうなものに全身を
委ねよう。……水にうかぶ水蓮の花のやうに、漣(さざなみ)のままに揺れてゐよう。

三島由紀夫「愛の疾走」より

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:41:11
……どうしてこの世の中に醜いことなどがあるだらうか。考へることから醜さが生れる。
心の隙間から醜さが生れる。心が充実してゐるときに、どうして、この世界に醜さの
入つてくる余地があるだらうか。……今まで誰にも触れさせたことのない乳房を、修一の
大きな固い掌が触つた。この人は怖れてゐる。慄へてゐる。どうして悪いことをするやうに
慄へてゐるのだらう。……この太陽の下、花々の間、遠い山々に囲まれて、悪いことを
人間ができるだらうか。……美代の心からは、人に見られる心配さへみんな消え失せてゐた。
世界中の人に見られてゐても、今の自分の姿には、恥づべきことは何一つないやうな気がした。……
それでゐて、美代の体が、やさしく羞恥心にあふれてゐるのを、修一は誤りなく見てゐた。
丈の高い夏草の底に埋もれて、彼女はそのまま恥らひのあまり、夏の驟雨のやうに地面に
融け込んでしまひさうだつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:41:59
初恋がすらすらと結ばれたら、そんな夫婦の一生は、箸にも棒にもかからないものになる。
人間は怠け者の動物で、苦しめてやらなくては決して自分を発見しない。自分を発見しない
といふことは、要するに、本当の幸福を発見しないといふことだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:04:37
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。



一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。


三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/25(日) 10:27:32
私は、自分の帰つてゆくところは古今集しかないやうな気がしてゐる。その「みやび」の裡に、
文学固有のもつとも無力なものを要素とした力があり、私が言葉を信じるとは、ふたたび
古今集を信じることであり、「力をも入れずして天地(あまつち)を動かし」、以て
詩的な神風の到来を信じることなのであらう。



文化の爛熟とは、文化がこれに所属する個々人の感情に滲透し、感情を規制するにいたること
なのだ。そして、このやうな規制を成立たせる力は、優雅の見地に立つた仮借ない批評である。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/25(日) 10:27:59
古今集は何といつても極端だ。論理的にも一貫してをり、古今集の「みやび」が何を
意味してゐるか、私にもわかるやうな気がする。すなはち、この世のもつとも非力で優雅で
美しいものの力、といふ点にすべてが集中してをり、その非力が精巧に体系化されてゐる点に、
「みやび」の本質を見ることができるからである。
…そのやうな究極の無力の力といふものを護るためならば、そのやうな脆い絶対の美を
護るためならば、もののふが命を捨てる行動も当然であり、そこに私も命を賭けることが
できるやうな気がする。現代における私の不平不満は、どこにもそのやうな「究極の脆い
優雅」が存立しないといふことに尽きる。

三島由紀夫「古今集と新古今集」より

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 11:16:10
少年といふものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、
亘理は冷眼視してゐるやうに思はれるのだつた。彼はむしろ脆弱さを守らうとしてゐた。
自分自身であらうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であらうとする少年は
少年たちの迫害に会ふのである。少年は一刻でも他の何物かであらうと努力すべきであつた。

三島由紀夫「殉教」より


不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。

三島由紀夫「毒薬の社会的効用について」より

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 13:11:02
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子もまた、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?



この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 13:12:56
たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。



恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。



はげしい歓びに身も心も酔ふてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 13:14:17
わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。



自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。



女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。



凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 14:12:54
名文だ

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 10:23:16
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。



人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。



誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。

三島由紀夫「三熊野詣」より

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 13:44:57
名文名作ばかり
日本の宝

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:17:44
>>180
三島由紀夫「ありがとう」

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:23:28
女の踝が美しいのは、このいかにも慎みのない突起が、なめらかな脚のつづきに現はれて、
そこで突然動物的なものを感じさせるからだらう。



ヤクザ特有の死に関する単純な投げやりな見解、真情を隠して抵抗する可愛い女、それらは
身についた卑俗と卑小の独特の詩を荷つてゐる。凡庸さを一寸でも逸脱したら忽ち
失はれるやうな詩が、かういふ物語の中にはこもつてゐる。天才に禍ひあれ。この種の詩は
決して意識されてはならず、看過されるときだけ薫りを放つのだ。そして大多数の映画は
すばらしいことに、すべてを看過しながら描写してしまふ。

三島由紀夫「スタア」より

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:27:02
「霧の夜道に青い灯に、別れた瞳が気にかかる」
この種の凡庸と卑俗の詩は、言葉の置き換へのゆるされない厳然たる存在だといふことに
誰が気づくだらう。人がかういふ詩の存在を許すのは、それらが紋切型で無力で
蜉蝣のやうに短命だと思つてゐるからだ。ところが永生を約束されてゐるのは実はこれのはうで、
悪が尽きないやうに、それは尽きない。鱶(ふか)のお腹についてゐる小判鮫のやうに、
それはどこまでも公式の詩のお腹について泳ぐのだ。それは創造の影、独創の排泄物、
天才の引きずつてゐる肉体だ。安つぽさだけの放つ、ブリキの屋根の恩寵的な輝き、
うすつぺらなものだけが持つことのできる悲劇の迅速さ、十把一からげの人間だけが見せる、
あの緻密な念の入つた美しさと哀切さ。愚昧な行動だけがかもし出す夕焼けのやうな俗悪な抒情。
……すべてこれらのものに守られ、これらの規約に忠実に従つた、この種の物語を
僕はとても愛する。

三島由紀夫「スタア」より

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:28:48
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる
力を持つてゐる。



スタアはあくまで見かけの問題よ。でもこの見かけが、世間の『本当の認識』の唯一つの型見本、
唯一つの形にあらはれた見本だといふことを、向ふ様も十分御存知なんだわ。世間だつて、
結局認識の源泉は私たちの信仰してゐる虚偽の泉から汲んで来なければならないことを
知つてるの。ただその泉には、絶対にみんなの安心する仮面がかぶせてなければ困るのよ。
その仮面がスタアなんだわ。

三島由紀夫「スタア」より

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:29:51
固さは脆さであります。



思想は多少に不拘(かかはらず)、暴力的性質を帯びるものである。



腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。

三島由紀夫「卵」より

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:55:28
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。

三島由紀夫「彩絵硝子」より


ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。

三島由紀夫「祈りの日記」より


『時』は私たちの生きてゐることの徒(あだ)な所以をいひきかせるために流れてゐるのであらうか?

三島由紀夫「花山院」より

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:44:58
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、
自然をつくりなす目にみえぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るやうに思はれ、
彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮(うしほ)の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと
調べを合はせてゐるやうに思はれた。


悪意は善意ほど遠路を行くことはできない


新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎の
むかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない処女の体だといふことを見抜いたであらう。
決して色白とはいへない肌は、潮にたえず洗はれて滑らかに引締り、お互ひにはにかんで
ゐるかのやうに心もち顔を背け合つた一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐へる
広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげてゐた。

三島由紀夫「潮騒」より

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:48:26
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、清らかな弾んだ声で言つた。裸の若者は躊躇しなかつた。
爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。
次の刹那にその体は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。
前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思つた。二人は
抱き合つた。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
と少女が言つた。

三島由紀夫「潮騒」より

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:52:09
この乳房を見た女はもう疑ふことができない。それは決して男を知つた乳房ではなく、
まだやつと綻びかけたばかりで、それが一たん花ひらいたらどんなに美しからうと
思はれる胸なのである。
薔薇いろの蕾をもちあげてゐる小高い一双の丘のあひだには、よく日に灼けた、しかも
肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失はない、早春の気を漂はせた谷間があつた。
四肢のととのつた発育と歩を合はせて、乳房の育ちも決して遅れをとつてはゐなかつた。
が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎはの眠りにゐて、ほんの
羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましさうに見えるのである。



男は気力や。気力があればええのや。

三島由紀夫「潮騒」より

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 15:32:53
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。感染しないやうに、
ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし本当に細菌の秘密を
知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。そして私は感染を、
つまり幸福になることを、怖れた。



若さはいろんなあやまちを犯すものだが、さうして犯すあやまちは人生に対する礼儀のやうなものだ。



青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。実際下らんものだ。

三島由紀夫「施餓鬼舟」より

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 15:35:04
死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして
やるために、殊更自分を嫌われ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の真実がある。
病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の別の動機が
ひそんでゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「貴顕」より


女方こそ、夢と現実との不倫の交はりから生れた子なのである。

三島由紀夫「女方」より

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 19:31:21
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。



体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。平和な時代であつても、スポーツは
青春の過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、知的な目ざめは、つかのまの解放へ
急がうとする自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、
自殺が勝つかである。

三島由紀夫「急停車」より

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 19:39:36
戦争は畢竟するに、生ける著名な将軍のためのものではなく、死せる無名の若い兵士たちの
ものなのである。あとにのこされた母や恋人の悲嘆のためのものではなく、
死んでゆく若者自身のエゴイズムのためのものなのである。愕(おどろ)くべきことだが、
人間の歴史は、青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、
まだ戦争以外のものを発明してはいない。



一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じることの、
目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。

三島由紀夫「急停車」より

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 19:47:58
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!


君は見神者の疲労つて奴を知つてるか。神がかりの人間は、神が去つたあとで、
おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、
眠りもならない。神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。


僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。天は、手を汚さずに僕等に
触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。
彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。天が手を抜くと、それは死だ。
……だから僕は、あらかじめ十分用心してゐたのだつた。初めから、僕には、ラディゲは
借りものであつて、やがて返さなければならないことが分つてゐた。……


生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。

三島由紀夫「ラディゲの死」より

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 10:52:58
莫迦な女ですね。…自分を莫迦だと知つてゐるだけになほ始末がわるい。女といふものは、
自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ循環論法に陥るのですね。



下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。


魔はやさしい面持でわれわれに誘ひをかける。




中年の女といふものは若い女を見るのに苛酷な道学者の目しか持たぬ点に於て女学校の
修身の先生も奔放な生活を送つてゐる富裕な有閑マダムもかはりない。

三島由紀夫「魔群の通過」より

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 10:57:33
まことに海も山も時であつた。人の目に映つたこの世のさまざまな事象は、一旦記憶の世界へ
投げ込まれるや、時の秩序に組み入れられた存在に他ならぬ。そこにあるものは、時の海、
時の山脈に他ならぬ。波はもはや浜辺に打ち寄せてゐる青い海水ではない。時の水に
充たされた海には、時の潮が時のつきせぬ波を波立ててゐるにすぎない。そのとき海が
却つてその本質を、その流転の本質を露(あら)はにするのである。
人間もまた時間の形をしてゐる。これだけが人間のほぼ確実な信頼するに足る外形である。



この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。

三島由紀夫「偉大な姉妹」より

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 10:59:59
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。大首物の役者絵は、悉く奇怪な偉大さを
持つた顔を描いてゐる。その偉大さには一種の不均衡と過剰がある。拡大された感情、
誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保たうがためにこの悲哀や歓喜の内容に戦ひを
挑んでゐる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、歌舞伎が考へたやうな
美の必然的な形式なのである。そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であつた。美が一個の
犠牲の観念であり、偉大が一個の宗教的観念となることによつて、この婚姻が成り立つた。
大首物の錦絵の顔は、偉大に蝕まれた美のあらはな病患を語つてゐる。



もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。

三島由紀夫「偉大な姉妹」より

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 11:04:56
われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ確信は、
幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?



認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(いによう)するのだ。



僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 11:11:18
自分の名前は他人の所有物だ。



『私』といふ言葉はもつとも仮構の共有物だと思はないかね。誰も僕のことを、
『おい、私』なんぞと呼びはしない。決してさう呼ばれないといふ安心が、『私』の
思ひ上りになり、はては権利になる。



僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によつて表現されたものは、
もうすでに、厳密には僕のものぢやない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有して
ゐるんだからね。



個性といふものは決して存在しないんだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 11:15:51
肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を節約したんだ。
自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの玩具さ。
……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕(おどろ)かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ。



精神は形態をもつやうに努力すべきなんだ。


生命は指で触れるもんぢやない。生命は生命で触れるものだ。丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。
それ以上のどんな接触が可能だらう。……

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 11:20:26
旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出とよく似てゐる。事前の欲望を辿ることはもう
できない代りに、その欲望は微妙に変質してまた目前にあるので、思ひ出の行為が
あたかも遡りうるやうな錯覚を与へる。



どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。



本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。



戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。他人らしい清潔な表情を
してゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 11:30:25
>>195続き
厭世的な作家?
そんなものはありはしないよ。認められない作家はみんな厭世家だし、認められた作家は
長寿の秘訣として厭世主義を信奉するだけだ。とりたてて厭世的な作家なんてありはしない。
彼らとてオレンジは好きなんだ。オレンジのの滓(かす)がきらひなだけだ。この点で
厭世家でない人間があるものかね。

三島由紀夫「魔群の通過」より

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 12:06:36
寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。



恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で
愛し合ふものである。


善意も、無心も、十分人を殺すことのできる刃物である。

三島由紀夫「日曜日」より


占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、
策謀と譎詐の時代である。

三島由紀夫「江口初女覚書」より

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 13:57:10
長く語り継ぎたい日本の心

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:04:23
潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、
緩慢さが備はるものだ。



罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。

三島由紀夫「果実」より

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:06:15
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。



強欲な人間は、よくこんな愛くるしい笑ひ方をするものである。強欲といふものは
童心の一種だからであらうか。



よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。

三島由紀夫「訃音」より

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:10:07
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂えた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、
この比喩は妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して
彼が負ふてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。



滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)すところから始めねばならぬ。
われわれ自身の崇高さを育てやうがためには、滑稽さをも同時に育てなければならぬ……。

三島由紀夫「死の島」より

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:12:37
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。



『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふことを
知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは目まぜして
嗤(わら)つてゐるのだ』

三島由紀夫「死の島」より

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:14:54
形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。あれは
僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……



『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這い出した甲虫(かぶとむし)のやうな
つややかな乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の
街路であるにとどまるだらう』……次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。
『きつとさうだらう。人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』
……それは葡萄に手が届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。

三島由紀夫「死の島」より

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 23:41:29
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。



男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。公私混同には
持つてこいの特権だ。


幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。



悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。「魂の純潔」なるものを保たせようとするならば、
少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも悪徳の虚栄心の方が有効なのである。

三島由紀夫「慈善」より

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 23:46:02
曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。人はこんな残酷な
相似に耐へられたものではない。


戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。しかし
運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては道徳はつかまらない。
戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。
従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。


絶対に無道徳な貞節といふものが可能ではあるまいか。絶対に道徳を知らないで道徳に
奉仕することができはすまいか。無道徳といふ無限定が、その無限定のために、やすやすと
不徳乃至(ないし)道徳といふ限定に包まれうるものならば、象が大きすぎるといふ理由で
鼠に負けるならば。

三島由紀夫「慈善」より

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 10:46:01
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥ぢてはゐなかつたにちがひない。むしろ
自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。
しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を着けることを強ひたのである。しかし又、蘭陵王は
それを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとしてゐたかもしれない。
なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい美しい顔は、傷一つ
負はずに永遠に護られることになつたからである。


私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)、
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。


何時間もつづけて横笛を練習すると、吐く息ばかりになるためであらうか、幽霊を見るさうだ。

三島由紀夫「蘭陵王」より

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 10:56:25
女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、
裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうであるから。


あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ滑稽な
代物でだらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。仕事に
熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が仕事に
熱中したつて何になるだらう。


女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにして
しまふのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。


どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 10:59:46
どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、或る休息に
似た気持が来るものである。


個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ。


嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、それは
嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
…自分に傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。


われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当に
自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:04:54
考へること、自己分析をすること、かういふことはみんな必要から生れるのだ。


この世で一等強力なのは愛さない人間だ。


肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけなのだ。


道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめて
ゐないのだ。道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:10:36
自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目移りして、
人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかしてしまふ。
自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の唯一の特権なのだ。


明日を怖れてゐる快楽などは、贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。


習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を
捨てようとする意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。


男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまえる!

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:14:00
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。あなたばかりでは
ありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分といふ人間の
足りないところを、よくよく知るやうになるのでございます。女は女の鑑(かがみ)には
なれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。それもつれない殿方が。


情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。
情に逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、
情に溺れて、もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:18:37
女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附けるだけなのでございます。
いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な不名誉は、
お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。


世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなほさず、世間に決して同情の涙を求めない
といふことなのです。

秘密といふものはたのしいもので、悩みであらうが喜びであらうが、同じ色に塗りたくつて
しまひます。それに国家の機密なぞは平気で洩らしませうが、自分の秘密を大事に固く
守ることは、女にとつてはそれほど難事ではありません。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:25:25
惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。ひたすらその方をうやまひ、
尊敬するやうになさいまし。お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、なほかつ尊敬するやうに
なさいまし。さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、つまらない人物に見えてまゐります。


ただ盲目であるときはまだ救はれ易い。本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を
意識しはじめて、それを楯に使ひだす場合である。


苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。どんな思想も、またどんな感覚も、
烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。

三島由紀夫「美徳のよろめき」より

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:33:02
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。

三島由紀夫「憂国」より

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:36:39
中尉の目の見るとおりを、唇が忠実になぞつて行つた。その高々と息づく乳房は、山桜の
花の蕾のやうな乳首を持ち、中尉の唇に含まれて固くなつた。胸の両脇からなだらかに
流れ落ちる腕の美しさ、それが帯びてゐる丸みがそのままに手首のはうへ細まつてゆく
巧緻なすがた、そしてその先には、かつて結婚式の日に扇を握つてゐた繊細な指があつた。
指の一本一本は中尉の唇の前で、羞らふやうにそれぞれの指のかげに隠れた。……胸から腹へと
辿る天性の自然な括れは、柔らかなままに弾んだ力をたわめてゐて、そこから腰へひろがる
豊かな曲線の予兆をなしながら、それなりに些かもだらしなさのない肉体の正しい
規律のやうなものを示してゐた。光りから遠く隔たつたその腹と腰の白さと豊かさは、
大きな鉢に満々と湛へられた乳のやうで、ひときは清らかな凹んだ臍は、そこに今し一粒の
雨粒が強く穿つた新鮮な跡のやうであつた。影の次第に濃く集まる部分に、毛はやさしく
敏感に叢れ立ち、香りの高い花の焦げるやうな匂ひは、今は静まつてはゐない体の
とめどもない揺動と共に、そのあたりに少しづつ高くなつた。

三島由紀夫「憂国」より

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:38:17
かうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味はつたかは言ふまでもあるまい。
中尉は雄々しく身を起し、悲しみと涙にぐつたりしてした妻の体を、力強い腕に抱きしめた。
二人は左右の頬を互ひちがひに狂ほしく触れ合はせた。麗子の体は慄へてゐた。
汗に濡れた胸と胸とはしつかりと貼り合はされ、二度と離れることは不可能に思はれるほど、
若い美しい肉体の隅々までが一つになつた。麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、
奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔つた。中尉は長駆する聯隊旗手のやうに喘いだ。
……そして、一トめぐりがをはると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携へて、
疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登つて行つた。

三島由紀夫「憂国」より

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 15:12:10
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。
「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。「わが青春は
おしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。
なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。
私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。老年の謐かな智恵が、あの秋の末に
よくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、ふとした加減で、
私にもわかるやうになるかもしれない。だがわかつても、その時には、何の意味も
なくなつてゐるであらう。

三島由紀夫「煙草」より

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 15:17:26
やさしい心根をもつゆゑに、人の冷たい仕打にも誠実であらうとする。誠実は練磨された。
ほとんど虚偽と見まがふばかりに。



事件といふものは見事な秩序をもつてゐるものである。日常生活よりもはるかに見事な。

三島由紀夫「サーカス」より


美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて
歩いてゐる男は道化じみる。

三島由紀夫「春子」より

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 15:21:38
相似といふものは一種甘美なものだ。ただ似てゐるといふだけで、その相似たものの
あひだには、無言の諒解(りようかい)や、口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が
存在してゐるやうに思はれる。


少女はかういふ咄嗟の場合にも好きな人の模倣を忘れない。模倣が少女の愛の形式であり、
これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。


この翼さへなかつたら彼の人生は、少なくとも七割方は軽やかになつたかもしれないのに。
翼は地上を歩くのには適してゐない。

三島由紀夫「翼」より


人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福といふものは皆と
同じになりたいといふ欲求だ。

三島由紀夫「クロスワード・パズル」より

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 15:26:53
この世界の愚劣を癒やすためには、まづ、何か、愚劣の洗滌が要るのだ。藷たちが
愚劣と考へることの、一生けんめいの聖化が要るのだ。あいつらの信条、あいつらの
商人的な一生けんめいさをさへ真似をして。

三島由紀夫「葡萄パン」より


大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまいを正して、静止してゐるかの
やうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ
昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で
順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。

三島由紀夫「雨のなかの噴水」より

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 16:07:16
本読みたくなってきた

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 23:43:15
一部の大人が考へてゐるやうに、戦後の青年が一人残らず十代で童貞を失つてゐるなどといふ
莫迦げた憶測は、事実から遠いものだ。どんな時代だつて、青春の生きにくさは、
外部よりも内部にあるのだ。今日のやうに、青春を妨げる外部の障害の多い時代には、
内部の障害を気にしないでゐられるので、童貞を失はないまじめな青年の数は却つて
多いといふ逆の理窟だつて成立つ筈だ。



大体甘い物語には甘い考へがつきものなのは已むをえない。狂気といふものがもしこんなに
甘い物語を生むものなら、正気の僕たちは、正気では考へられない甘い空想を、それに
はなむけすべきではなからうか? それとも君は、僕の話が嘘つぱちだと云ふのぢやあるまいね。

三島由紀夫「雛の宿」より

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 00:02:07
あれは実に無意味な豪奢を具へた鳥で、その羽根のきらめく緑が、熱帯の陽に映える森の
輝きに対する保護色だなどといふ生物学的説明は、何ものをも説き明しはしない。
孔雀といふ鳥の創造は自然の虚栄心であつて、こんなに無用にきらびやかなものは、
自然にとつて本来必要であつた筈はない。創造の倦怠のはてに、目的もあり効用もある
生物の種々さまざまな発明のはてに、孔雀はおそらく、一個のもつとも無益な観念が
形をとつてあらはれたものにちがひない。そのやうな豪奢は、多分創造の最後の日、
空いつぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐へ、来るべき闇に耐へるために、
闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に飜訳して鏤(ちりば)めておいたものなのだ。だから
孔雀の輝く羽根の紋様の一つ一つは、夜の濃い闇を構成する諸要素と厳密に照合してゐる筈だ。

三島由紀夫「孔雀」より

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 00:02:27
俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。自分も知らない
罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、夢のなかの
罪のほかには。

三島由紀夫「孔雀」より

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 00:03:19
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分かれようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに
割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、
たうとう分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。

三島由紀夫「海と夕焼」より

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 00:03:54
われわれの内的世界と言葉との最初の出会は、まつたく個性的なものが普遍的なものに
触れることでもあり、また普遍的なものによつて練磨されて個性的なものがはじめて所を
得ることでもある。



少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず入つてくる滑稽な夾雑物、
それなしには人生や恋のさなかを生きられないやうな滑稽な夾雑物を見たのである。
すなはち自分のおでこを美しいと思ひ込むこと。
もつと観念的にではあるが、少年も亦、似たやうな思ひ込みを抱いて、人生を生きつつ
あるのかもしれない。ひよつとすると、僕も生きてゐるのかもしれない。この考へには
ぞつとするやうなものがあつた。

三島由紀夫「詩を書く少年」より

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:15:35
辷り台を辷り下りるとき、子供はどんなにうれしさうな顔をするか。辷り下りるといふことは
素晴らしいことなのにちがひない。重力の法則、この一般的な法則のなかで人は自由になる。
その他の個別的な法則はどこかへ飛んでいつてしまふ。
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。


自殺をすれば、国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。『前途有為な青年が
どうして自殺なんかするのだらう』前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。
大体この二つの観念は必ずしも矛盾しない。未来を確信するからこそ自殺する男もゐるのだ。


土曜日の午後がはじまつてゐた。『土曜日は人魚だ』と一雄は思つた。『半ドンの
正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。俺も魚の部分で、思ひきり
泳いでいけないといふ法はないわけだな』

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:19:13
一雄は醜い女もきらひではなかつた。本当に男を尊敬できるのは、劣等感を持つた女だけだ。


女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。


犬だつて女のやうな表情をうかべることがある。


この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。


国民の自覚、といふ言葉で、誰も吹き出さなかつたのはふしぎだつた。「国民」とか
「自覚」とかの言葉には、場末で売つてゐる平べつたいコロッケ、藷(いも)と一緒に
古新聞の切れつぱしなんぞの入つてゐる冷たいコロッケのやうな、妙にユーモラスな
味はひがある。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:24:11
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。


彼はふと自分が流行歌手になつてゐるところを想像した。マドロスの扮装をし、
ドーランを塗り、にやけた表情をする。この空想が彼を刺戟した。歌うたひにはみんな
白痴的な素質がある。歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。
或る流露感だけに涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。
この非流動的な、ごつごつした、骨や肉や血や内蔵から成立つたぶざまな肉体といふもの。
これが問題だ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:26:31
二十九歳まで童貞でゐられるとはすばらしい才能だ。世界の半分を無瑕(むきず)で
とつておく。それまで女をドアの外に待たして、ゆつくり煙草を吹かしたり、国家財政を
研究したりしてゐたのだ。
決して急がない男がゐるものだ。世間で彼は「自信のある男」と呼ばれる。蝿取紙のやうに
ぶらぶら揺れて待つてゐる。人生が蝿のやうに次々とくつつくのだ。かういふ男は
どんなに蝿を馬鹿と思ひ込んで、一生を終るだらう。事実は、蝿取紙に引つかからない
利口な蝿もゐることはゐるのだが。


不死は、子や孫にうけつがれるなんて嘘だ。不死の観念は他人にうけつがれるのだ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:35:48
どんか死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。



一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?



われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、人間的な
劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。



記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。

三島由紀夫「真夏の死」より

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:39:12
事実らしさを超えて事実がありうるのはふしぎなことだ。子供が一人海で溺れれば、
誰しも在りうることと思ひ、事実らしいと思ふであらう。しかし三人となると滑稽だ。
しかし又、一万人となれば話は変つてくる。すべて過度なものには滑稽さがあるが、
と謂つて大天災や戦争は滑稽ではない。一人の死は厳粛であり、百万人の死は厳粛である。
一寸した過度、これが曲者なのである。



悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。



生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
…この残酷な生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。

三島由紀夫「真夏の死」より

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:45:04
あれほどの不幸に遭ひながら、気違ひにならないといふ絶望、まだ正気のままでゐるといふ絶望、
人間の神経の強靭さに関する絶望、さういふものを朝子は隈なく味はつた。
…われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか? しかしただ
理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを空想するに
すぎないのであらうか?



事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。

三島由紀夫「真夏の死」より

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:55:09
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようと
する人に与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の
死によつて生きる。
朝子を今襲つてゐるのは、この眠りであつた。支へきれない真摯、
固定しようとする誠実、かういふものの上を生はやすやすと軽やかに跳びこえる。
もちろん朝子が守らうとしたものは誠実ではない。守らうとしたのは、死の強ひた一瞬の感動が、
意識の中にいかに完全に生きたかといふ試問である。この試問は多分、死もわれわれの
生の一事件にすぎないといふ残酷な前提を、朝子の知らぬ間に必要としたのである。



男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。

三島由紀夫「真夏の死」より

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 12:49:41
生きてたらもっと書いてくれただろうに

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